「あせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です」
夏目 漱石
典拠
「あせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です」という言葉の典拠は、文豪、夏目漱石が若き日の芥川龍之介や久米正雄らに宛てた手紙に記した言葉です。
焦らず自分のペースで着実に根気強く努力を続けることの大切さを「牛」に例えて教えています。漱石先生は手紙の中で、「世の中は根気の前に頭を下げる」と語り結果を急ぐのではなく、周囲の評価や流行に惑わされず、どっしりと構えて大真面目に進み続けることこそが人生を切り開く鍵であると励ましました。
(釋丞良:書)
味わい
焦らず、ただ牛のように図々しく進んでいく。夏目漱石先生が遺したこの言葉には、張り詰めた現代を生きる私たちの心をフッと緩め、泥臭くも力強い勇気をくれる深い「味わい」があります。
私たちは、スマートに効率よく成果を出す「馬」のような生き方を求められがちです。しかし、周囲の目や評価を気にして疾走する馬は、挫折した瞬間に強い焦りを感じ、やがて息切れしてしまいます。それに対して、よだれを垂らしながらも泥道を一歩一歩のそのそと歩む「牛」には、他人の流行や評価に一切惑わされない、どっしりとした「本物の強さ」があります。
この言葉の妙味は、あえて「図々しく」という泥臭い表現を使った点にあります。それは「立派でスマートな人間にならなくていい」「不器用でのろまな自分のままで、開き直って生きていけばいい」という、絶対的な自己肯定のメッセージです。
この姿勢は、浄土真宗の「他力本願」の教えにも深く響き合います。自分の力で物事を急ごうとするエゴを捨て、自らの愚かさを抱えたまま大きな流れにおまかせする。あれこれと小さな計算をせず、今日与えられた一歩を淡々と踏み出していく。それこそが、この言葉の本質です。
焦りを感じたときこそ、この言葉の出番です。私たちは馬になる必要はありません。格好悪くても、不器用でも構わない。人間の小さな知恵で急ごうとせず、どっしりと構えて「今、ここ」の歩みを止めないこと。その根気の前にこそ、人生の確かな道が開けていくのだという、じんわりと温かい安心感がこの言葉には満ちています。